ほとんど家から出ずに黙々と一人で生活していると、さまざまな雑念が頭に浮かんでは消えてゆくもの。

 

この日記では、家から出ないことに定評のあるライター・上田啓太が、日々の雑念や妄想を文章の形にして、みなさんにお届けします。

 

今回は、

・日常とドラクエ

・ガチの七夕

・ハンバーグ王に俺はなる

の三本です。

 

上田啓太

文筆業。ブログ「真顔日記」を中心に、ネットのあちこちで活動中。
ブログ:真顔日記 Twitter:@ueda_keita

 

日常とドラクエ

〔新価格版〕ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S - Switch

子供の頃はよく世界を救っていた。たぶん十回以上は世界を救ったんじゃないだろうか。世界を救うことが日常の行動に組込まれていた。なんのことはない。ドラクエが好きだったからだ。

 

いま思えば、あれはすごくスケールの大きな生活だった。日常的に学校に通いつつ、放課後は自宅で魔王を倒し、世界の平和を取り戻していた。学生の本業が勉強することならば、私は副業として勇者をやっていたことになる。学生と勇者の二重生活だ。尊敬できる。

 

だが、その副作用として、私は日常のあちこちにドラクエ的なものを見出す大人に成長した。まったく何の関係もない場面でも、すぐにドラクエのことを連想してしまう。

 

以前、京都の梅小路公園を散歩していた。この公園はかなり敷地が広く、園内には京都水族館をはじめとして、さまざまな施設が入っている。その中に「緑の館」というものがあった。このネーミングの時点で、すでに私はドラクエ的な雰囲気を感じていたのだが、案内板には、こんなことまで書かれていた。

 

「緑の館の2Fから、朱雀の庭に行くことができます」

 

これはもはや攻略情報だと思った。緑の館も大概だが、「朱雀の庭」というのも絶妙にドラクエ的なネーミングだ。日常で見かけるには、神話の要素が強すぎる。

 

緑の館の2Fから朱雀の庭に入ってみた。とくに危険なモンスターはおらず、庭内は平和そのものだった。そのへんはドラクエと違っていた。ただ驚いたのは、「朱雀の庭」の先に「いのちの森」という場所があったこと。いよいよ冒険も終盤だ、と思わされた。物語の核心に迫っている。

昔、友達の家に遊びに行った。治安のよくない場所にあると聞いていたから、緊張して行ったのだが、それほど危険な雰囲気はしなかった。そう伝えると友人は言った。

 

「いや、あの橋を渡った向こう側がヤバいんだよ……」

 

この時もドラクエを思い出していた。橋を渡るとモンスターが強くなって危険度が増すというのは、副業として勇者をしていた時に学んだことの一つだったからだ。

 

小学生の頃、深く考えずにマップの中の橋を渡ると、見たことのない巨大なゴリラが何匹も出てきて、手も足も出ないままボコボコにされて全滅した。この体験がトラウマとなっている。死んでしまうとは情けないと王様に言われたが、おまえは偉そうに玉座に座ってるからそんなことが言えるんだよ、おまえもあのゴリラの群れに対峙してみろよ、それでも同じこと言えんのかよ、と思ったものだった。幼少期のドラクエ体験に、その後の世界観を規定されている。

 

そういえば、バッハの音楽を初めて聴いた時、ドラクエのBGMに似ていると感じたが、これはシンプルに逆だ、逆。歴史は時系列でソートせよ。

 

ガチの七夕

短冊に願いごとを書くという行為を、最後にしたのはいつだろう。記憶にない。ずいぶん長いことしていない。小学生の頃はしていた。学校のイベントだったか、それとも町内会のイベントだったか。

 

七夕になると、子供たちのみんなで短冊に願いごとを書いて、それを笹にくくりつける。そして数日後に笹を持って街を歩き、最後は河川敷に行って、笹ごと短冊を燃やしていた。

 

あらためて記述してみると、なんだか異国の奇祭のようだ。とくに最後、いきなり笹を燃やしはじめるところ。燃やすなよ。

 

まじめに考えると、短冊に願いごとを書くというのは大変な行為である。素朴な願いごとなら、あの細長いスペースにおさまるかもしれないが、現代人の肥大した欲望を受け止める場所としては、短冊はあまりに頼りない。

 

脂ぎった皮膚と血走った目が特徴的な現代のガリガリ亡者たちが、ガチの七夕をしようとした場合、大量の短冊を用意する必要がある。その欲望は一枚にはおさまらず、すぐさま二枚目にも手をのばす。しかし書けば書くほど欲望はふくれあがり、三枚目にもびっしりと続きを書く。

 

最終的に、一千枚をこえる分量の、鈍器のような短冊が完成する。そうして作り上げた欲望の塊を、大人たちは我先にと笹にくくりつけていく。各所で乱闘も起こる。罵声が飛び交い、ケガ人も出る。織姫と彦星のことなんか知るか! 遠い夜空の向こうにいるという、顔も知らない男女のことよりも、おれには、おれだけが、おれの欲望だけが重要なんだ!

 

だが、そうして誰もが分厚い欲望をくくりつけたため、エゴの重みに耐え切れず、笹は極端に湾曲した後、バキバキと音を立てて二つに裂けてしまう。そうして結局、誰の欲望も叶うことはなく、もみくちゃになって傷だらけになった人間たちと、あわれに引き裂かれた笹の残骸だけが、その場に残されることとなる。

 

なんだか、ありがたい仏教説話みたいになってきたので終了。ありがたい仏教説話が書きたいわけじゃないんだ。

ハンバーグ王に俺はなる

デニーズに「ハンバーグ王決定戦」と書かれたメニューが置かれていた。その聞き慣れない響きに胸のときめきを覚えた。ハンバーグ王とは魅力的な称号だ。総理大臣よりも、CEOよりも、私はハンバーグ王になってみたい。ぜひとも立候補させてもらいたい。グッとこぶしを握りしめ、真夜中のデニーズで決意した。ハンバーグ王に、俺はなる!

 

だが、メニューを開いてすぐに気が付いたのは、ハンバーグ王になるのは人間ではなく、ハンバーグなのだった。人間たちの投票で、デニーズのさまざまなハンバーグのうち、ひとつが王の称号を獲得するらしい。

 

エントリーされたハンバーグには、ミラノ風ハンバーグ、麻婆茄子ハンバーグ、おろしハンバーグと鶏の唐揚げ膳、こだわりトマトと香味野菜の生姜醤油ハンバーグなど、色々あった。人間たちがスマホから投票することで、王を決める仕組みらしい。民主制である。ハンバーグ王は世襲制ではないようだ。

 

それはよいのだが、とりあえず、そこに私の名前はなかった。全国の小学生たちもまたガッカリしているにちがいない。われわれはハンバーグ王を食べたいのではない。ハンバーグ王になりたいのだ。

 

所詮、人間に生まれた時点で、ハンバーグ王になることはできない宿命なのか。三十年以上前、私が人間の女の胎内に宿った時、すでにハンバーグ王にはなれないことが決まっていたのだ。人生とは夢の破滅である。ハンバーグ王になろうとする、その不合理な情熱が、ただただハンバーグに生まれなかったという事実によって、粉砕される。これが世の定めだ。受け入れよ!

 

しばらくすると、店員が注文を取りに来た。深夜の店員は無愛想である。私がハンバーグ王じゃないからだろう。ハンバーグ王が食べに来ていれば、深夜三時の店員だって、深々と頭を下げるにちがいない。

 


 

ということで、今回は三本の日記でした。

それでは、また次回。