今日は図書館の話をしたい。

読書の習慣ができるまで、私は図書館がこんなに便利なものとは知らなかった。とくに読書の初期段階、「多読」の時期に図書館はすばらしい施設になるのである。

 

うなるほど金がある人以外は図書館へ行こう

「多読」というのは本を大量に読むことである。少しでも興味を引かれた本は読んでみる。読書へのハードルを徹底的に下げて読みまくる。読んでみてつまらなければ途中でやめる。じゃないと地獄である。つまらない本を最後まで読むのは地獄。頭にも入ってこない。

読書の習慣ができはじめた段階では、面白い本を見抜く能力はない。こんなもんは読んでいくなかで培われるものである。「俺は女と付き合ったことがないが女を見る目はある」と言い張るのは無茶である。同じことが読書にも言える。こればかりは経験で身に付けるしかない。つまらない本も大量に読みながら、徐々に見る目を養っていくのである。

そしてその場合、確実に金がネックになる。多読するなら金の問題を締め出さねばならない。だから無料で本が借りられる図書館を使い倒すのである。

 

貸出冊数が意外と多い

図書館の存在を知らない人はいないと思うが、その便利さは意外と知られてない。例えば、私が以前使っていた国分寺市の図書館は一度に12冊まで貸出可能だった。しかも返却は駅前のポストでいいという素晴らしい仕様だった。

現在は京都市の図書館を使っているが、こちらは10冊まで貸出可能である。地域にもよるが、一度に借りられる冊数はかなり多いのだ。最初はこの事実に驚いていた。毎回、図書館で限界まで借りてカバンをパンパンにして帰宅していたのを覚えている。

貸出期間は二週間。予約がない場合はさらに二週間延長することができる。

 

ネット予約が超絶便利

図書館のサイトがあり、本の検索と予約ができる。これが超絶便利である。とくに日常的にネットを使ってる人は(ジモコロを見てる人はそうだと思いますが)、覚えておいて損はない。

ネットで面白そうな本を見つけたら、図書館サイトで蔵書検索をしてみる。本があるならワンクリックで予約する。受け取る図書館も指定できる。数日後には近所の図書館で受け取ることができる。この便利さはえげつない。多読している頃の私は、ネットで面白そうな本を見つけては予約して借りるということを繰り返していた。

余談だが、話題のベストセラーは図書館では借りにくい。予約件数がアホのような数字になっているからである。村上春樹の『1Q84』が発売された時など、予約件数が1000件を超えていた。ベストセラーは素直に買うか古本屋で安くなるのを待つのがいいだろう。

さらに余談だが、新刊の予約件数で自分と世間のズレを知ることもある。自分が話題作だと思っていたものが、図書館で検索すると予約2件だったりするのである。これは「ほーん」と思う。ものすごく狭いところで盛り上がっているだけだったと気づかされる。私は世間とのズレをできるだけ自覚しておきたいと思っているので、こういうのは嬉しい。

 

頭の中に「学問の地図」をつくる

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図書館の本棚で頭に「学問の地図」が生まれる。これは図書館を使っているうちに気がついたことである。

図書館の本棚は、全国どこでも次のように分かれている(カッコ内は私が勝手にいれた説明である)。

0 総記(本に関する本。ネットに関する本もここ)

1 哲学(自己啓発書もここに入っている)

2 歴史

3 社会科学(経済学や株の本もここ)

4 自然科学(数学、物理学、脳科学、生物学などなど)

5 技術

6 産業

7 芸術(音楽や映画やテレビやマンガも含んでいる)

8 言語

9 文学(小説やエッセイ、大抵ここの冊数が一番多い)

ひとつの図書館に何度も通っているうちに、地図が脳内にできる。目を閉じてイメージするだけで図書館の内部を歩き回ることができるようになる。これが重要である。多読で重要なのは個々の本そのものよりも、多読を通じて頭の中に構築される「地図」のほうだからだ。

まずは多読で地図を作る。自然と自分の関心が地図上のどこにあるのか見えてくる。それから少数の本の「精読」に移ればいい。

連載第三回で「自己啓発書ばかり1000冊も読んじゃダメ」と書いた。これは地図なしで多読することによる失敗なのである。地図がないから自分の偏りに気づけない。

現在、ベストセラーには自己啓発書が並ぶが、そういった本に惹かれる人が本当に求めているものは、たぶん自己啓発書ではない。

 

私の場合、どうだったか?

具体的な自分のエピソードを書こう。

私はコンビニにあった自己啓発書を読むことで読書生活に入ったが、そこに求めていたものはなかった。私の問いは「自分とは何か?」「世界とは何か?」の二つだった(と今はあっさり言える。当時はもっとアヤフヤな言葉で考えている)。

私は「分からん、分からん」と思いながら図書館を使い倒した。文庫や新書から5000円以上する専門書まで、どれも無料で読めることが役に立った。三年で1000冊ほど読んだ。これが結果的として「多読」になった。

「自分とは何か?」という問いは心理学や行動経済学や哲学にスライドしていき、「自我とは何か?」「自我が薄れた時も残っている『これ』は何か?」という問いに分裂した。

「自我とは何か?」という問いは認知療法の本で解決した(参考:連載第四回)。

「世界とは何か?」については物理学に期待していた。同時に明晰夢やオカルトめいたものにも可能性を感じていた。だが、自我の問題が解決したあたりで、この問いは「自我が薄れた時も残っている『これ』は何か?」という問いと融合した。

この問いは「禅」や「キリスト教神秘主義」が扱っていた。たとえば『臨済録』や『神の慰めの書』が値段的にはお手頃である(内容はお手頃ではない。いきなり読んでもワケ分からんと思う)。

これが私の場合である。

大量の本を読んだ現在では、事後的に「自分の問題はこうだった。図書館のここを探せばよかった」と言える。しかし最初は自分の問いも分からなかったし、世の中にどんな本があるのかも知らなかった。だから多読を通じて「学問の地図」をまずは肉体化することを私はすすめる。

 

結論:図書館を使い倒そう

人生のある時期に、人類の過去の資産を大量に浴びること。これは重要である。蓄積が創造性を生むのである。要するに勉強は大事なのである。こういう話は大抵、「天才を例外として」という腰の引けた文句がくっついてくるんだが、私はそんなことは言わない。蓄積と無関係に登場する天才などいない。蓄積に無自覚な存在が天才に見えるだけである。

 

ということで、図書館を利用した多読によって脳内に読書マップを作ることは、後々まで役立つ非常に良い経験になると思う。今すぐ最寄りの図書館を調べて使い倒すべし。

 

 

臨済録 (岩波文庫)

臨済録 (岩波文庫)

 

 

神の慰めの書 (講談社学術文庫)

神の慰めの書 (講談社学術文庫)

 
 

 

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