こんにちは、ライターの谷頭和希(たにがしら かずき)です。

 

前回の記事に引き続き、瀬戸内海に浮かぶ佐柳島(さなぎじま)という離島に来ています。

島中にいるネコで一躍有名になっているこの島……前回はそんな佐柳島の魅力を、ネコを中心に紹介しました。

 

 

今回は、この島をもうちょっとディープに巡ってみましょう。例えば前回、こんなスポットを紹介しました。

 

天狗を祀った、大天狗神社に……

 

二つのお墓がセットになっている両墓制というお墓。

 

ネコ以外の観光名所として、さらりと紹介しましたが、実はこうした信仰や風習が残っているのはかなり珍しいのです。

 

なぜ、佐柳島にはこうした信仰や風習が残っているのか?

 

この疑問を紐解いていくと、佐柳島のみならず、日本の歴史の「裏」側まで見えてくる……?

 

天狗のミステリー

みなさんは「天狗」というと何を思い浮かべますか? 鼻が高くて、葉っぱでできた扇を持ち、高下駄を履いている……こんなイメージですよね?

佐柳島に祀られている天狗も、一般にイメージされるこういった天狗のようです。

 

しかし、佐柳島の天狗は、他の天狗とあきらかにちがう特徴を一つだけ持っています。

 

それは、とっても海に近い場所で祀られていること。

 

これ、すごく珍しいことなんです。だって天狗といえば、普通は山にいるものではないでしょうか。例えば東京の高尾山も天狗で有名ですが、山ですよね?

 

天狗といえば山

このイメージはそもそも天狗の伝承が発生した理由に関係しています。日本の妖怪学の礎を築いた井上円了の『天狗論』を引いてみましょう。

 

 わが国にありては、古代より修験のごときは深山無人の境に入り、果実を食して生を送りしものあれば、たまたま山路に迷いたるものが、かかる行者に遇うことあるべし。その人、家に帰りてこれを他人に語れば、相伝えて天狗談となるは、あえて怪しむに足らず(井上円了『天狗論』より)

 

修験のごとき……そう、天狗とは日本古来の宗教である修験道の修行者(山伏・修験者)だったのではないかと言われています。

修験者は山中での厳しい修行の中でげっそりとやせ細り、人間でありながら、人間でないかのような姿をしていた。そんな彼らを見た誰かが「あれは妖怪の類……天狗だ!」と勘違いしたのが、天狗信仰の始まりではないかと、井上円了は仮定しているのです。

 

一般的な山伏のイメージ。深い山の中で修業をする(唐山健志郎『立石光正』|Wikipediaより)

 

さて、ではなぜ、周囲4kmをぐるりと海に囲まれた佐柳島に、天狗信仰が残っているのか。実はこの島にも、人間でありながら人間らしからぬ者の伝説が残っています。

 

海賊です。

 

海賊というとパイレーツ・オブ・カリビアンみたいな外国の海賊を思い浮かべるかもしれませんが、かつて日本にも海賊は存在していました。

資料から覗いてみましょう。中世(鎌倉~室町)日本にいた海賊はどのような人々だったのか?

 

ある日のこと。大阪の堺と瀬戸内海の港湾を結ぶ一艘の客船は、海賊たちの船に出会った。

最初、海賊は交渉を持ちかけてきて話し合ったが、答えが出せず、しびれをきらした彼らは、突然攻撃を始めた。(梅守龍周防下向日記より妙訳)

 

山内譲『海賊の日本史』によれば、ここで言う交渉とは、船が払った「礼銭」をめぐるものだったそうです。礼銭というのは、神の領域である海を通行する際に、人間が神に支払うべき謝礼のようなもの。

 

瀬戸内の海賊たちは、神が統治する神聖な海を守る者でもあったのです。しかるべき謝礼を払わない人間に対しては、容赦なく攻撃を加える、それが彼らが海賊たる所以です。

 

海という自然が、まだ人智の及ばない場所であり、とても神聖だった中世という時代……瀬戸内の海賊は神の使いでもあったんですね。

一般人から見ると、山の修験者と同じく「人間でありながら、人間ならざる者」として、海を跋扈していたのです。

 

ということは……ひょっとして、佐柳島の天狗とは海賊のことだったのではないでしょうか?

そう考えれば、高い山がなく、海に囲まれたこの島に、天狗を祀る神社があることの辻褄が合います。

 

大天狗神社にあった天狗の石像

 

佐柳島の天狗は、本当に海賊だったのか? 真実は島と海だけが知っている……

 

 

歴史に残らない「海の民」の話

さて、ここからは海賊についてもう少し詳しく調べていきましょう。

 

実際、佐柳島と海賊はどういう関わりがあったのでしょうか。

頻繁に海賊からの襲撃を受けていて、畏怖すべき災いだったのか? 

海を守る神聖な使いとして、島民からの畏敬の念を集めていたのか?

 

実は、「島民」と「海賊」をハッキリ分けて考えるのが、そもそも間違いなんです。

瀬戸内地方の海賊というのは、島民を襲来していただけではなく、島民もまた海賊行為を行っていました

 

島で畑を耕す農民として暮らしながら、一方で、困窮すると海賊として沿岸の船を襲う、「半分農民、半分海賊」という不思議な暮らしを営んでいたそうです(沖浦和光『瀬戸内の民俗誌』より)。

 

瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて (岩波新書)

 

海を自由に航海し、「神の使い」として略奪を行う海賊は、国にとって非常に厄介な存在でした。普通に考えれば、時の政権は、佐柳島を滅ぼしそうなものですが……

ここで、佐柳島の歴史を少しのぞいてみましょう。

 

年代 できごと
1240 元房が佐柳島乗蓮寺を建てる(記録上、もっとも古い記録)
1389 足利義満、厳島神社参拝のときに、暴風のため佐柳島に上陸
1578 海上功績により、織田信長より朱印状を授かる(その後、豊臣秀吉からも朱印状を授かる)
1860 勝海舟が船長であった、咸臨丸の乗組員として、佐柳島から2名が選ばれる
1890 佐柳村、が誕生
1956

多度津町に編入される

(『多度津町史』より)

 

滅ぼされるどころか、むしろ讃えられている……!?

 

その理由はこの2つがわかりやすいですね。

・織田信長、豊臣秀吉から海上功績により朱印状を授かる

・勝海舟が咸臨丸の乗組員として、佐柳島から2名を選ぶ

 

そう、海に囲まれた生活を送っていた佐柳島の海賊は、非常に優れた航海技術を持っていたため、武将たちから海上警護の任務を任されることがあったのです。

国の配下にすることにより、海賊行為を制限するという利点もあったのでしょう。

 

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『ワンピース』の王下七武海みたいなものでしょうか

 

海賊たちは、「海の民」という身分を与えられ国家の一員になりました。そして通常の身分制度には含まれない、特別な存在として歴史の裏舞台を支えてきたんです。

こうして、「半分農民、半分海賊」であった佐柳島民は、国家の一員として、海賊行為の代わりに「半分農民、半分漁師」の「海の民」となり、時には航海技術を国のために役立ててきました。

歴史家の網野善彦氏が著書で言及したように、「海の民」の存在は日本の歴史をたどっていくうえでは欠かすことのできない存在だったのです。

 

もちろん佐柳島だけではなく、その他の地域の海賊も、「海の民」として海上警護などの任に就いていました。が、彼らの記録はほとんど残っていません。

なぜなら、「海の民」は一か所に定住するということがなく、海の上を流浪する人々だったからです。彼らの記録は散逸し、忘れ去られてしまったのです。

 

記録として残りやすいのは、陸地で農業を営んでいた「農民」の暮らしばかりです。農民は先祖代々の土地を受け継ぎながら生活するので、記録が残りやすいのです。

 

佐柳島は……?

 

島の住民に話を聞いてみると、彼女たちは少女時代を思い出しながら、このように語ってくれました。

 

「昔、佐柳島は、数千人という人が暮らしていてね、彼らは山で農業を営みながら、同時に漁をおこなったり水先案内をしていたりしたわ。半農半漁の生活ね」

 

完全な海の民であれば、流浪の人々ゆえに記録は残りません。しかし佐柳島の島民たちは、定住民として農作も営み、伝統を受け継いできたため、貴重な「海の民」の記録が現在まで残ったのです。

 

 

半農半漁が生んだ両墓制

佐柳島には、世界でも珍しい2つのお墓を持つ「両墓制」が残っています。

両墓制のお墓は、

・詣り墓(まいりばか)

・埋め墓(うめばか)

の2つに分かれています。そしてそれぞれ、まったく異なる2つの意味をもっています。

 

詣り墓

亡くなった人の魂が眠るためのお墓で、遺体は埋まっていない。親族や子孫は、このお墓へ墓参りに行く。見た目は、普通の形。佐柳島では、埋め墓と隣り合って立てられている。

 

 

埋め墓

亡くなった人の遺体を埋めるためのお墓。佐柳島では、小さな石をたくさん積み重ねて作られる。小さなお墓が密集しており、通常のお墓とは全く異なる形態が特徴です。

 

両墓制の由来を調べると、

日常生活の空間にあり、生活の中で個人を偲びお参りするための詣り墓(魂が入ってる)

と、

死者の空間、非日常空間としての埋め墓(遺体が入ってる)

を完全に分けるために、2つのお墓を作ったという説が有力です(川添善行「両墓制集落における祭祀と埋葬の空間論」)。

 

佐柳島の両墓は、海岸までわずか数メートルという場所に立てられています。まるでお墓が瀬戸内海をじっと眺めているかのよう。

 

佐柳島の海。両墓の埋め墓は、この海の波にさらわれる(遺体が海に帰っていく)ことも想定してして作られた、という説もあります。

 

つまり埋め墓は、現在まで偶然残ってはいますが……本来残すことを前提には作られておらず、それは記録を残すことのなかった「海の民」にも通ずるものです。

 

積み上げられた墓石。実際にかつて使われていた墓石のようです

 

一方で、魂が眠っている詣り墓は、後世までお詣りが出来るようにと作られたわけです。きわめて「農民」的なお墓と言えます。

 

海に生き、お墓までも「残さないもの」として捉えていた「海の民」は日本の歴史上、重要であるにも関わらず、ほとんど記録がのこりませんでした。

しかし佐柳島は「半農半漁」ゆえに、土地に農地を持ち、何かを「残そう」とする心性も同時に持っていました。

たからこそ、僕たちは自在に海を駆けた「海の民」の記憶を見ることが出来るのです。

 

 

佐柳島に、日本の「隠された」歴史を見る

というわけで、前回のネコをメインにした記事の裏面として、今回はさらに深く、佐柳とそこから紐解くかつての海の姿を考えてみました。

瀬戸内海の離島、佐柳島にはこんなにも奥深い「隠された」日本の歴史が埋まっているのでした。みなさんも「ネコだけではない」佐柳島をゆっくりと楽しんでみてください。