今でもその日のことを鮮明に覚えている。仕事場のデスクで、訃報を知った。同時に、失うわけのないものを突然失う悲しさを知った。

Twitterに訃報が流れ始め、事実を確認するためにバンドの公式サイトをのぞいたものの、サーバがパンクしていて何も見られない──。

参考:志村正彦を愛した皆様へ  http://quishin.com/137/

 

上記は筆者が2014年のクリスマスに書いた文章だ。

 

今から9年前の2009年12月24日。ロックバンド、フジファブリックの志村正彦が急逝。

 

人は誰しも死んでしまう。しかし、志村さんが亡くなったのは29歳。あまりにも若い。あまりにも若くて、現実をまったく受け入れられなかった。僕自身は当時24歳で、大切な人を失った経験なんかほとんどなくて、かなり狼狽えたことを覚えている。

 

フジファブリックほど自分の人生に影響を与えているバンドは少ない。

 

10代のときにお笑い芸人をやっていた頃、初めて組んだコンビの相方と仲良くなったのはフジファブリックがきっかけだった。音楽雑誌出版社で働き、フジファブリックに取材することを夢見ていたときに志村さんはこの世を去った。両国国技館の単独ライブや出演フェスに一緒に行っていた僕よりひとつ年上の84年生まれの友人も、数年前に死んでしまった。

 

フジファブリックは当時から大きなライブハウスをいっぱいにできる人気バンドだったが、志村さんが亡くなったあともその人気が衰えることはなかった。

 

楽曲のほとんどの作詞作曲は志村さんである。ミスチル櫻井の率いるBank Bandでカバーされて一層有名になった「若者のすべて」は今ではバンドの代表曲だし、映画『モテキ』の主題歌「夜明けのBEAT」でその名を知っている人も多いはずだ。

 

志村正彦の遺した音楽の欠片に触れようと地元・富士吉田を訪れるファンはあとを絶たず、命日であるクリスマスイブになると、町はたくさんのファンで溢れ返る。

 

 

「志村さんが亡くなったあとも、富士吉田で志村正彦のことを多くの人に知ってほしいと活動している人たちがいるらしい

 

そんな話を聞いて、富士山の見える町、富士吉田を訪れた。

 

志村正彦の意思を継いで。「路地裏の僕たち」結成秘話

富士吉田の有志によって結成されたのが今回取り上げる「路地裏の僕たち」。志村さんの同級生を中心とした20名ほどのチームである。

 

「僕は小学校と中学校の同級生です。だから音楽をやっているまーくん(志村さん ※編集部注)のことはあまり知らなくて。当時、まーくんはすごく野球が好きだったけど、俺の方がうまかったかな?(笑)」

 

そうやって笑うのは、「隊長」と呼ばれているチームのリーダー的存在、渡辺雅人(わたなべ・まさと)さん。

 

「同級生の他にも後輩とか、正彦に憧れて手伝ってくれている連中もいるので。そういうメンバーでやってますね。今は地元のローカルFMで、毎週30分のラジオ番組『路地裏の僕たちでずらずら言わせて』を配信するのが主な活動です」

 

ファンであればピンとくるのが、この「路地裏の僕たち」という名称。この名前は、有名曲「陽炎」の中で歌われる歌詞がもとになっている。

 

 

この名前を付けたのが、チームの広報部長、渡辺一史さん。

 

「中心メンバーの中では、僕は同級生じゃないんですよ(笑)。最初に何かやりたいといってみんなが集まっていたときに、チーム名をつくるかという話になったんです。ミュージシャンとしての志村正彦じゃなくて、みんなの中では同級生のひとりだから、『路地裏の僕』の仲間たちということで、『路地裏の僕たち』がいいんじゃないかなって」

 

まずはこのふたりに、「路地裏の僕たち」のヒストリーについて聞いていきたい。

 

「路地裏の僕たちを結成するきっかけって何かあったんですか?」

「最初は、志村正彦展という、展示会がきっかけです」

「彼の生まれ育った富士吉田市の新町というところで、自治会の方々が地元の文化祭をやっていたんですね」

「文化祭の催しとして地区会館で、展示会を毎年やっていて。2010年の11月3日かな」

「そこで自治会の方々たちの間で『志村さんちの息子さんはミュージシャンで有名だったらしいな』となって、地元の人たちにもっと知ってもらいたいって話が出たんです」

「うんうん」

「志村くんの親戚の人が書いた絵や、志村くんゆかりの品を飾ったんです。そしたら告知もしなかったけれど、ファンが来てくれた。それで1年目は終わりました」

「へえ。じゃあ最初の一年は、それだけだったんですね」

「本当にそれだけ。ただ、志村くんのことをずっと記事にしてくれていた地元の新聞でも取り上げてくれたんです」

「おおおおっ」

「それが終わった後にファンの方が聞きつけて『そんなことをやったんですね!』という反響があって、これはすごいことをやったんだなーと僕らも思いました。自治会の人たちも、じゃあ来年もやろうかということになったんです」

「じゃあ翌年の2011年は、告知をしたんですか?」

「そうなんだけど、ファンの人たちがSNSで盛り上がっちゃって、自治会がこれは地元の公民館でやるには荷が重いから、『できない』って話になったんですよ」

「えっ! そんなに反響が多かったんですね」

「そうそう。で、たまたま僕は市役所で自治会の取りまとめをする担当だったので、『だったら僕にやらせてください』と言いました」

「一史さんと雅人さんは富士吉田市役所で働いてるんですよね」

「そうなんです。どうしようって考えたときに、雅人に声をかけたんです」

「僕はその声がかかる前から正彦のことは何かやっていきたいと思っていました。そこで最初はふたりでご両親のところにあいさつに行って、『展示会をやりたい』と提案したのが始まりです」

 

2011年の「志村正彦展」に3,000人もの人が

「当初は正直、フジファブリックってどれくらい知られているのか、ファンがどれだけいるのかって僕らもよくわかってなかったんです。もちろんライブに行けばたくさんの人が来てくれていたけど、展示をやると言ったところでどれくらいの人が来てくれるのか全然想像がついていなくて」

「まず会場を抑えなきゃという話になって、電話をしたのが 、フジファブリックがアルバム『TEENAGER』ツアーの追加公演のときに志村くんが特別な思いで凱旋ライブをした、富士五湖文化センター」

「一史さんが連絡してくれて」

「12月中旬くらいの土日で空いてる日ありますか?って電話したら、『全然空いてないけど、12月の23日24日だけ空いてます』って言われました」

「えーっ、すごい! 命日の」

「僕は電話しながら鳥肌立ってて、『即決!』って感じで『雅人、やべーよ!』ってすぐに伝えて」

「初日もオープン前からたくさんの人が並んでくれて、結果的には2日間で3,000人もの人が集まってくれました」

 

当日の会場の様子

 

「告知したのは僕のツイッターと、Fujifabric International Fan Siteっていうファンサイトです。だからどんなに集まっても数百人だろうなって思ってたんだけど」

「中野サンプラザでやったお別れ会のときの写真を飾ってね」

 

「『志村會(しむらかい)』ですよね。僕も行きました」

「中野サンプラザで展示していたものを、志村家の倉庫にずっと保管してたんですよ。特に2011年はこれをメインにして」

「それはファンとしてはうれしいですね」

「富士五湖文化センターの3階の会議室だったので、会場にお客さんが来て最初に目につくところにこれを置きました。みんなもう、それだけで号泣(笑)」

 

僕らにとって、とにかくモチベーションはファンの方たちです。最初の志村正彦展のとき、控室なんてお土産の山でした。並んだ階段や通路には行列ができちゃって、3時間ずっと待ってるんですよ。寒い中。志村くんのファンってみんなおとなしいし、本当に礼儀正しいし」

「女性が多いイメージですよね」

「うん。やっぱり女性のほうが多いです。男性だと、バンドマンが多いのかな。第1回のときはふたつの小さな会議室みたいなところに展示をしていたんです。でも想定外に人が来た。僕らのイメージとしてはファンが来て5分10分くらいで出るだろうと想像していたんですけど、みんな1個1個ずーーーっと見てるんですよ(笑)」

「だから行列が長くなって、3時間待ちになっちゃった」

「女の子が夕方頃に、『またやってください』って半泣きで話しかけてきて、事情を聞いたら、九州から来ていて、このあとの電車じゃないと飛行機に乗れないので帰りますって。その子は並んだだけなんですよ。展示は見れなくて」

「だからメンバーが引率して、中をパパッと見せてあげて、駅まで送ってあげたり。でもそのとき、本当に正彦のすごさを感じたんです」

「と、言いますと?」

「そういうひとりで泣いているような、あまり行動的ではなさそうな女の子が多い中、わざわざ富士吉田まで来てくれたわけです。こんなに正彦のことを想ってくれているなら、これは仲間たちで伝えていかなきゃ、ファンに恩返しをしなきゃ、ってそのときに改めて思ったんですよね」

 

「路地裏の僕たち」は何か明確な見返りがあるわけではない中で活動している。この取材日も、おふたりは仕事を休んで取材に協力してくれた。メンバーの方々が口を揃えて言っていたのは「志村正彦のファンのために」ということ。

 

突然亡くなってしまった志村正彦という人の意思を継いで、その富士吉田愛を少しでもフジファブリックの音楽を聴いてくれる人たちのためにお返ししたいというのが、路地裏の僕たちの原動力だ。

 

 

「路地裏の僕たち」ヒストリー

2009年12月24日 志村正彦、急逝

 

2010年11月3日 町内会で最初のきっかけとなる小規模な展示会が開かれる

 

2011年12月23、24日 志村正彦展「路地裏の僕たち」開催

 

2012年12月24日 志村正彦展「路地裏の僕たち2」開催

企画展やミニライブ、うどんの販売を市役所の若手職員と共同で実施。

またこの年、命日である12月24日の前後3日間、富士吉田の夕方6時の防災チャイムが「若者のすべて」に変わった。

雅人さんが富士吉田と志村正彦のために何かしたいと考えている中で、あるとき地元の高校生や市民から「防災チャイムを『若者のすべて』に変えてほしい」とメールがあり、「地元にこうやって同じように思ってくれる若者がいるからには、やるべきだ」と確信し、始まった取り組み。

その後は、誕生日である7月10日の前後一週間と命日である12月24日の前後一週間は、チャイムが「若者のすべて」や「茜色の夕日」に変わっている。その期間中には多くのファンが訪れるきっかけになっている

 

2013年7月13日

「路地裏の僕たち」メンバーでNHKののど自慢大会の予選に出場。NHKの密着が付いていたので「これはいける!」と思われるも、惜しくも敗退。本戦出場ならず

 

2013年7月14日

忠霊塔の神社の境内、神楽殿をステージにして、地元のコピーバンドや全国から集まった志村正彦を愛する人たちが演奏するイベントを開く

 

2015年7月11日

「路地裏の僕たち上映会」開催。フジファブリックのライブDVD、『Live at 富士五湖文化センター』が、志村正彦の通った小学校、富士吉田市立下吉田第一小学校の体育館で上映された

 

 

2016年5月1日

「エフエムふじごこ」にて『路地裏の僕たちでずらずら言わせて』開始。以後現在まで継続。同級生たちが志村正彦との思い出や富士吉田のことについて語っている

 

2016年9月25日

新宿ロフト40周年記念イベント

DREAM MATCH 2016に出店&出展

 

志村正彦の富士吉田愛