最高で年間140万人が集った、飯山のスキーブームの実態とは?

飯山の人々にとって、雪は生活するうえで苦労も多い一方で、観光資源として大切な存在。かつてスキーブームといわれた頃、市内にはスキー場が点在し、ピーク時にはスキー場全体で年間140万人を越す入込者数を記録したそうです。

 

現在残っているのは、出稼ぎに頼らない冬の収入源としてはじまった土着的な「戸狩温泉スキー場」と、高度経済成長期に誕生した外来的な「斑尾高原スキー場」のみ。今もなお飯山の二大スキー場として、時代の変化に対応しながら営業を続けています。

 

数々の噂が残るスキーブームの背景で、実際に飯山ではどんなことが起きていたのか。今回、それぞれのエリアで宿を営みながらその現場を見てきた 3名の方にお話をお聞きしました。

 

話を聞いた人:北村 武司さん

京都府出身。斑尾高原エリアで「フジオペンション」を営む。バブル前からスキーに親しみ、当時は大阪・戸狩間を繋ぐ急行列車「第二ちくま号」に乗って飯山方面へよく来ていた。昭和51年にできた「フジオペンション」は今の奥さんの実家。たまたま泊まったことがきっかけとなり、30歳で結婚を条件にペンションを引き継ぐ。

 

話を聞いた人:水野 英夫さん・庸子さんご夫婦

英夫さんは飯山出身、庸子さんは東京都出身。次男の息子さんとともに戸狩温泉エリアで「アルペンプラザ」を営む。長男だった英夫さんは、東京の大学進学後、旅行会社を経て、28歳で2代目として稼業に入る。庸子さんとはいとこ同士で結婚。稼業に入るタイミングで庸子さんも女将さんとして嫁ぎ、早40年。

 

 

「今日はよろしくお願いします! 当時のお話を直接聞けるの楽しみにしていました」

「よろしくお願いします」

「というのも前職で飯山の観光のお仕事をしていたとき、スキーブームの頃の飯山はすごかった!って噂を耳にすることが多くて。今じゃ考えられないようなエピソードもあったりしたんですよ、例えば『戸狩の民宿で廊下でもいいから泊まらせてくれ』みたいな」

「あ、それはもっともっと昔かも。我々がまだ子供の頃の話だね」

「でもピークの頃も、現地にいるけど宿が決まってないってお客さんから連絡があったりもしたよね。さすがに廊下でっていうのはわからないけど(笑)」

「そうだったんですね! じゃあ、飯山で『スキーブーム』と言われていたピークっていつ頃なんですか?」

 

「バブルの頃が一番だね。だいたい1991年から1993年頃。バブル真っ只中と、バブルの弾ける頃が一番人数的に多かったんじゃないかな」

「なるほど。実は私、92年生まれなんですよ。だからその頃の話はほぼ知らなくて」

「観光地はどちらかというと、バブルの崩壊から1、2年くらい遅れて余波がくる。だいたい首都圏を中心に不動産などから影響が出てきてた頃、スキー場とか飯山周辺はまだお客さんが溢れてて。その後、徐々にしわ寄せが来た感じかな」

「宿屋は経済が盛り上がってきたときも、盛り上がりが遅い。だからへこむのも若干遅い傾向があるね」

「へ〜。その時代の大きな流れとは一歩ずれて波が来る、と」

「あのバブルの勢いを味わっちゃうと、『もう1回来るんじゃないか』とか思っちゃう。やっぱりその感覚にしがみついてる人も、なかにはまだいるかも」

「今は言う人も減ったけど、10年ぐらい前までは『あのときのあの雰囲気がまた必ず帰ってくる。だからまだこういうことをやってる』みたいな人は結構いましたよね」

「なるほど。確かにここ10年で、時代の流れも価値観も大きく変わった印象がありますもんね」

 

「とにかく滑りたい」映画の流行とともにやって来たスキーヤーたち

「スキーブームのピークと言われる91年〜93年頃のお話を、もう少し詳しく聞かせてください!」

「この頃といえば、映画『私をスキーに連れてって』ですよね」

「ちょうど公開された頃がバブルのはじまり。『私をスキーに連れてって』に影響された人たちがとても多かった」

「それより前からずっとスキーブームがあったんだけど、映画を境にさらに賑わいはじめたイメージですね」

「私も観たことがあります。観光のお仕事していた当時の上司から『必ず観て! あの時代を知らないのは損だから!』って言われて」

 

「あの時代は、働き手には苦労しなかったですよね。大学生がみんな『居候でもいいから』『お金なんかいらないから』って来て。1日数時間でもスキーが滑れればいいって言ってね」

「え、バイトじゃなく居候?」

「そうなんです。基本的に食事と寝るところを提供して」

「今でこそ、そういう方にはせめてリフト券とかを差し上げてるけど、その当時はなかった」

「携帯もなかったし、外へ出たって雪だから行くところもないし、とりあえずみんなで飲むかって賑やかでしたよね。あと、アルバイトに子どもの面倒もみてもらったり。良い時代だったなあ」

「でもその代わり、スキー場なんかは滑る場所がなかったけど」

「え? 滑る場所がない……?」

「バブルの頃は、高速リフトってのはまだまだ出るか出ないかぐらいのとき。だから平気でリフトに乗るのに1時間待ちだったんだよね」

「わお、まるでディズニーランドのアトラクションみたいですね」

 

長野県・飯山スキー100周年記念「飯山スキー100年誌」より

 

「当時はスノーボードがまだなかったでしょう? みんなスキーだから、途中で止まるなんていうのはほぼないの。だからリフトに並んでると、人のスキー板の上を子どもがびゅーって横切っていくこともあった(笑)」

「なるほど、ゲレンデの大部分にリフトの行列があったということですか。スキーブーム恐るべし……」

「バブルの頃からリーズナブルになって、スキーツアーも手が届く範囲の料金に安くなったのも大きい。映画もあったし、流行りのポップスなんかも『ちょっとスキーをはいてみようかしら』とか『ゲレンデにこういう曲を聞きたいわ』みたいなブームもあったなぁ」

「ユーミンや広瀬香美の曲がいまでも浮かびますね」

とにかくスキーを楽しみたいというお客さんたちが、どんなに吹雪いてようが、リフトが止まるまでがんばって滑って、朝もパッと食べてさっとゲレンデに行くみたいな感じでしたよ」

 

隠し部屋があった?!「廊下でもいいから泊まらせてくれ」の真実

「でもそれだけお客さんが来ると、宿も争奪戦なんじゃないですか?」

「当時はスキーを中心とした旅行会社がいっぱいあって、そこがバスツアーとかでガーッとお客さんを集めるんです。その上で、エリアで付き合いの深い宿屋が親元になって、集めたお客さんをエリア内の宿に振り分けるんですよね」

「親元は名簿にあるお宿さんに電話して『満室だから』と断られたとしても、2回、3回とかけ直してやっと受けてもらうって感じ」

「お正月なんて、宿も決まってないお客さんもいてね。『今日空いてませんか!?』とか電話がかかって来るんですよね」

「そうそうそう! だから隠し部屋まで確認しましたからね。あそこの家空いてるよねとかって」

「か、隠し部屋……!?」

 

「ひどいときは、ほかのエリアの宿がもういっぱいでオーバーブッキングしちゃってさ、バス1台分のお客さんをどこかに入れないといけないとか、それがどっかの宿に入ったとか、もうそんな話ばっかりですよ」

「不思議と入るんですよね」

「ちょっと待ってください、どのお宿にも隠し部屋ってあるんですか……?」

「いや、別にないんですよ。普段、使わない部屋を使ってもらうだけの話だね」

「え、普段お客さんを入れないような所でも入れちゃうという……?」

「だからそういうのが噂になって、廊下でも寝させてたっていう話になるんだろうね」

「おおお、そういうことだったのか……!」

 

「人手がないから駄目って受け入れを断られたときなんか、うちのバイトも付けるからお願い〜! って時もありました」

「そう。うちの場合だと、ピーク時には150人ぐらいが泊まっていたから、スタッフだけで20人近くいるわけよ。だからそのうちの2人を付けるから、お客さん10人引き取ってくれって暇な宿に頼むんだ」

「スタッフごと別の宿に派遣していたと……すごい話……」

「まあ、今じゃそんなこと難しいよね。そういうことも許された時代だったんです」

 

「食事も今じゃ考えられないですけど、当時は知らないお客様同士が目の前にいたりとか、もうパズルのように席を組んでいました」

「当時は素泊まりという料金設定が、まずなかったですからね。ほぼ一泊二食付き」

「ということは、1日150人分とかの食事を用意してたわけですか。当時はきっと今よりも積雪が多いし、除雪体制もそんなに整っていなかったと思うと、食材の手配が大変そう……」

「食事の準備が一番大変でしたね。でもスキーブームになってくると、同時に流通も道路もよくなってきて」

「そうですね、お客さんが来てるときの方が結構暇だったかも。忙しいときってアルバイトはいっぱいいるし、食材も配達してもらえるし。だから逆に、暇になってきたときの方がやアルバイトもいないし、自分で買い出しに行かないといけないし、実は大変!」

「そうだ! さっき人手には困っていなかったと言ってましたね」

「本当に今でこそですよね。『掃除、誰がするの? え、私がするの?』みたいな(笑)」

「そうそう。『俺しかいないわ』って!(笑)」

 

「でも本当に忙しさは半端じゃなかったね」

「うん。その頃からはじまったスキーの宅急便(※)だって、嫌になっちゃうってくらい朝からずーっとやってた記憶がありますもん」

※1983年から始まったヤマト運輸によるサービス。スキー道具などを事前に宿やスキー場に届けてくれる。帰りは宿から自宅などへ発送する人も多く、手ぶらで移動できるメリットがあった

「そうそう。宅急便の手数料だけで、海外旅行に行けるくらいの売上になったもんね」

「……!(驚きすぎて言葉を失う)」

「本当に無我夢中で冬の100日間をこなして、もういつ寝たんだか、いつ起きたんだかみたいな日々。若かったから私たちもできましたけど、もしまた波が来たとして今同じことをやれって言われたらできないかもしれないな〜」

 

スキーブームを経て、この先 思うこと

「スキー場自体の経営のことはもちろん、温暖化の影響で積雪が少なくなる話もあったり、海外から観光やビジネスでまた入って来る人たちがいたり、これからは常に変化が求められそうですよね」

「個人的には、やっぱりバブルのようなことにはならないで欲しいなとは思います。細く長くじゃないけど、あんまり背伸びしないような経営ができていければ。日本全国どこでも同じようになるんじゃなくて、斑尾は斑尾の良さ、戸狩は戸狩の良さみたいに、土地の個性を生かしていければいいのかなあ

 

「スキー場の営業継続を考えると、日本におけるスキーやスノーボードの人口が減ってくれば、海外から来るお客さんを取らざるを得ないよね」

「またインバウンドが活発になってきたときに、今の日本の若い人たちも影響をされて、スキーとか体を動かすスポーツをどんどんやって、昔の人たちみたいにたくましくなってほしいな」

「日本は四季があって、スキーもできるし、水遊びもできるから住んでて楽しいと思うんだ。そういう豊かな場所に住んでるんだから、日本人はもう少し外遊びをしてもいいかもね。やっぱりその土地ならではのライフスタイルで生活してますって人がいないとさ。だから、ここに住んでる人たちがもっと楽しく遊んでるみたいな雰囲気があったらいいですよね」

「本当にそうですね。飯山を語る上では欠かせないスキーの文化。まずは住んでいる人たちが雪が身近にある生活をもっと面白がっていかないと続いていかないですもんね。今日は貴重なお話をありがとうございました!」

 

おわりに

正直、現在のスキー場からは想像できないことばかりでしたが、確かに30年前、飯山のスキー場でも熱狂的なブームが育まれていました。

 

時代の変貌を宿を通してみてきた皆さんの想いを聞けば聞くほど「ああ、スキー場に行かねば……」という気持ちが芽生えた私。最後にゲレンデを滑ったのは高校2年生のスキー教室以来なんですが、今年の冬こそはスキー場にちゃんと足を運んで、当時に想いを馳せようと思います。

 

今回、紹介したスポットを巡れば、飯山の冬の魅力に気付くきっかけになることでしょう!

そんな冬の魅力を感じる方法のひとつが、スキーやスノボでもあります。

 

飯山の冬は、さまざまな角度から楽しめるので、ぜひみなさん遊びにきてくださいね。お待ちしていま〜す!

 

インタビュー撮影:小林直博

 

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