文豪ストレイドッグス(1) (角川コミックス・エース)

今、「文豪」が静かなブームになっていることをご存知でしょうか。

文豪たちをモチーフにしたコミック「文豪ストレイドッグス」は、シリーズ累計500万部を突破。他にも「文豪失格」「月に吠えらんねえ」「文豪とアルケミスト」など、文豪を題材にしたコンテンツが続々大ヒット中なんです。

 

申し遅れました、ライターのコエヌマカズユキと申します。新宿で文壇バーの店主をしているくらい本好きです。

 

皆さんは文豪と聞くと、誰を思い浮かべますか? 夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、梶井基次郎などたくさんいますが、この人を忘れてはいけません。そう、太宰治(1909~1948年)です。

 

有名な作品には「斜陽」「津軽」「ヴィヨンの妻」「走れメロス」、そして「人間失格」などがあります。

 

 

作家として多くの功績を残した一方で、私生活ではこんな人間臭いエピソードが残っています。

太宰治・人間臭すぎep1

熱海にいた太宰のところへ、作家・檀一雄が遊びに来た。二人は豪遊し、お金を使い果たしてしまう。仕方なく、太宰は檀を宿に残し、お金を取りに東京へ戻った。しかし、いつまで経っても戻ってこない。檀が宿の人と一緒に東京に戻り、太宰を探すと、作家・井伏鱒二の家で、のん気に将棋を指す太宰の姿があった。

 

太宰治・人間臭すぎep2

太宰がある場所で酒を飲んでいると、年よりの文学者3人が入ってきた。彼らは知り合いでもないのに太宰を取り囲み、作品の悪口を言い始める。笑って聞き流していた太宰だが、家に帰ってご飯を食べていると、悔しくて嗚咽が出て、茶碗も箸も手放しおいおい泣いてしまった。女房は呆れ顔で太宰を寝床に連れて行ったが、嗚咽はなかなか止まらなかったという。

 

太宰治・人間臭すぎep3

小説「逆行」が第1回芥川賞の候補になった太宰。しかし落選してしまい、選考員だった川端康成に対し「刺す」「大悪党」など過激な文章を発表する。一方で、同賞の選考委員であった佐藤春夫に対し、「芥川賞をもらへば、私は人の情で泣くでせう」「こんどの芥川賞も私のまへを素通りするようでございましたなら、私は再び五里霧中にさまよはなければなりません」「見殺しにしないで下さい」など、受賞を懇願する手紙を出していた。

 

孤高の文学者というだけでなく、こういった人間臭いエピソードを知ると、ますます彼の魅力にはまってしまう……というわけで、ファンの方々は今でも毎年6月19日に「桜桃忌」と呼ばれる追悼イベントを行っています。

 

今回は桜桃忌に合わせ、太宰の人物像や魅力により迫るべく、東京にある、ゆかりのスポットを巡ってきました。小説のモデルになった女性にもインタビューできたのでお楽しみに!

 

太宰治を巡る東京観光|三鷹

まず向かったのは三鷹市・三鷹駅。

青森で生まれた太宰治は、1939年(昭和14年)9月から、亡くなる1948年(昭和23年)6月まで三鷹で暮らしていました。

「ヴィヨンの妻」「桜桃」など同地を舞台にした作品も複数あり、ゆかりのスポットもたくさん残っています。その中から、現存する場所を中心に紹介していきます。

 

①太宰治のお墓がある「禅林寺」

駅から10分ほど歩いたところにある禅林寺に、太宰治(本名は津島修治)のお墓があります。桜桃忌もこのお寺で行われ、毎年たくさんのファンが訪れます。

 

ちなみにすぐ近くには、文豪・森鴎外のお墓があります。

太宰は短編『花吹雪』の中で、「この寺の裏には、森鴎外の墓がある(中略)私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した」と書いています。それを受け、夫人がこの場所にお墓を建てたのだとか。

 

禅林寺

住所:東京都三鷹市下連雀4-18-20
墓地の開門時間:8時から日没まで

 

②太宰治が入水した玉川上水

太宰が愛人の山崎富榮さんと入水し、そのまま最期を迎えたのが玉川上水です。

小説「乞食学生」にも登場しますね。川べりには、その一文が刻まれたレリーフがあります。

 

近くには、太宰の故郷である青森産の玉鹿石(ぎょっかせき)が、石碑としてまつられています。太宰が入水したのはこのあたりだと言われているのです。

 

今は水が浅く、流れも緩やかですが、当時は自殺の名所として知られた急流だったようです。

 

ちなみに6月19日の桜桃忌が、太宰の命日だと思われがちですが、実は命日は6月13日です。19日は遺体が発見された日であり、誕生日でもあることから、桜桃忌が開かれ、浸透していきました。

 

玉鹿石

住所:東京都三鷹市下連雀3-3-50 

 

③太宰が通っていた「太宰横丁」

太宰の行きつけだった小料理屋・喜久屋があった飲食店街です。

横町の名前は、太宰が通っていたため付けられたのだとか。お酒好きだった太宰は、ここを毎日のように千鳥足で通ったのでしょうね。

 

 

太宰横丁

住所:下連雀3-27-8 ムサシ三鷹ビルの東側の通り

 

④貴重な資料が見られる!太宰治文学サロン

「太宰治文学サロン」では、年表や資料、直筆原稿の複製や初版本などが展示されているほか、企画展も定期的に開催しています。

実はこの場所は、太宰が通っていた酒屋・伊勢元の跡地。まさに太宰ゆかりのスポットなのです。

 

せっかくなので、学芸員の吉永麻美さんにいくつか質問をしてきました。

 

太宰作品の魅力や、時代を超えて共感を集める理由は何でしょう」

「まず、作品に”古さ”を感じないこと。それは、太宰が生み出した独特の語りかける文体によるものでもあります。また、時代を超えて人々が抱える普遍的な苦悩、喜びなどが表現されていることが、読者の共感を得る要素となっているのではないでしょうか」

「最近ではマンガやゲームなどを入り口に、太宰治のファンが増えています。そういった状況に関してはどう思いますか?」

若い読者の入り口としては、最高のツールだと思います。マンガやゲームで興味を持ったら、ぜひ実際の太宰治の人となりや、作品の素晴らしさにも目を向けて欲しいですね」

「では、初心者にもおすすめの太宰治作品を教えてください」

「太宰治と聞くと、ほとんどの人が『人間失格』や『斜陽』など、晩年の作品を手に取るでしょう。ところが、中学校の教科書で『走れメロス』を読んでから、年を経て晩年の作品に入ると、必ずと言っていいほどギャップに驚いて、アレルギーになってしまう場合があるんです」

「確かに……僕も、あの『メロス』の作者が、こんな暗くて悲しい話を書くの?って驚きました」

「けれど昭和13年以降に発表された中期の三鷹時代の作品は、妻を得て、子どもにも恵まれ、家庭人となった太宰の、明るい作品が多くあります。『富嶽百景』『東京八景』などですね」

「熱烈な太宰の読者からも、末永く愛されている作品ですね」

「太宰作品は、太宰の人生に重ねながら、年代ごとに順を追って読むと、彼の人生を理解しやすいのではないでしょうか」

 

 

太宰治文学サロン

住所:三鷹市下連雀3-16-14 グランジャルダン三鷹1F
電話:0422-26-9150
営業時間:10時~17時30分
定休日:月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日と翌々日)、年末年始

 

太宰治を巡る東京観光|国分寺・浅草・銀座

⑤行きつけだったうなぎ屋「若松屋」

三鷹から国分寺へ移動し、向かったのは若松屋という うなぎ屋。

太宰は仕事を終えた後や、編集者との打ち合わせに、当時は屋台だった若松屋を、よく使ったそうです。元々は三鷹にあり、現在は国分寺で営業しています。

 

若松屋

住所:東京都国分寺市東元町2-13-19
電話:042-325-5647
営業時間:17時~22時
定休日:水曜日・第3火曜日

 

⑥電気ブランが名物「神谷バー」

東京をほぼ横断して、続いては浅草の神谷バーへ。

ここは日本で最初にできたと言われているバーで、電気ブランというお酒が有名です。太宰の小説『人間失格』にも、「酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはない」と書かれています。

 

ちなみに電気ブランの通な飲み方は、割りものなしのストレートで、ビールをチェイサー(口直しの水)にするというもの。電気ブランはアルコールが30~40度もあるので、お酒に強くない人は気を付けて!

 

神谷バー

住所:東京都台東区浅草1-1-1
電話:03-3841-5400
営業時間:11時30分~22時 
定休日:火曜日

 

⑦文豪たちが通った文壇バー「ルパン」

銀座で1928年から営業している、歴史ある文壇バー・ルパン

永井荷風・直木三十五・武田麟太郎・川端康成・大佛次郎・林芙美子といったそうそうたる文豪も通っていたそうです。

 

太宰治も、同じく無頼派作家と言われる織田作之助、坂口安吾とよく訪れていたそうで、有名なあの写真(上記画像参照)も、ここで写真家の林忠彦氏により撮影されました。

林氏が織田作之助を撮影していると、酔っ払った太宰から「俺も撮れ」と言われ、例の写真が誕生したというエピソードがあります。

 

太宰と同じ場所、同じポーズで写真を撮りたいというお客さんは多いようで、撮影していると、お店の方が「もっと右足を前にしたほうが良いよ!」などアドバイスをくれました。

 

ルパン

住所:東京都中央区銀座5-5-11 塚本不動産ビル地階
電話:03-3571-0750
営業時間:17時~23時30分
定休日:日曜日・月曜日

太宰治を巡る東京観光|新宿

⑧ママは太宰の小説のモデル「風紋」

最後は新宿のバー風紋へ。お店の開店は1961年で、57年もの歴史があります。

ママの林聖子さんは、太宰治と親交があった方。小説『メリィクリスマス』に登場する少女・シヅエ子のモデルでもあります。

 

歴史の証人であるママに、太宰さんとの思い出話を聞きました。

 

変わった歩き方をしている人が太宰治だった

「聖子ママは太宰治さんと親交があったそうですね。出会いはいつだったんですか?」

「小学校6年生のときです。両親が離婚して、私は父と暮らしていたのですが、高円寺に住む母のところへよく遊びに行っていました。母は絵描きを志していて、太宰さんと知り合いだったんです」

「初めて太宰さんに会ったときのことを覚えていますか?」

「私が母の家へ行こうとして歩いていると、踏切の向こうから、前へつんのめるように歩いていらっしゃる男の人がいて、『あ、この人……母が言っていた太宰さんだ』って」

「え、それまでは一度もお会いしたことがなかったんですよね? なぜ“この人だ”と思ったんですか?」

「母がスケッチブックに、太宰さんはこういう顔の人よ、ってよく描いて見せてくれていたんです。だからわかったのね」

「お母さん、絵描きを志してただけあって、メチャメチャ絵がうまかったんですね。その時は、『太宰さんですか?』って声をかけた?」

「いえいえ、確信はあったんですが、会ったこともない男の人だし、私も子供でしたからね。声をかけずに、私は本屋に寄ったんだったかな? そのあと母の家に行ったら、玄関に、さっきの男性(太宰治)がしゃがんでた。下駄の前歯が取れちゃったようで、金づちで叩いて直していました」

「だから前へつんのめるような歩き方をしていたんですね。初めて会った太宰さんはどういう印象でした?」

「もう最初の会話は憶えていませんけど、静かで大きくて(太宰の身長は当時としては高い175cm)……今まで見たことがないタイプの男性だなと。太宰さんは、ひっきりなしにタバコを吸っていましたね」

 

「太宰さんとは、どんなお話をしたんでしょう?」

「夏休みに父のお供で、中禅寺湖に行ってたんです。そのことを母に話していると、太宰さんはそばで静かに聞いていました。それからも母のところへ遊びに行くと、太宰さんはよく来ていましたね」

「何をしに来ていたんですか?」

「遊びに来ていたのでしょうね。あと当時はお酒が配給制でしたから、それを楽しみにしていたようです。母は自分では飲まないので、太宰さんは母に配られたお酒を、ニコニコしながら召し上がってました」

「お酒好きの太宰さんらしいエピソードですね。ちなみに聖子ママはそれまでに太宰さんの小説は読んでいたのですか?」

「母が、これ面白いわよって本を貸してくれたんです。『御伽草子』ですね。電車の中で読んだんですが、面白いものだからついニヤニヤしたり、ウフフって声出して笑っちゃったりして、恥ずかしかったわ。それから、太宰さんの本はかなり読みましたね」

「学芸員さんもおっしゃっていましたが、太宰さんの作品は暗いと思われがちですが、ユーモラスなものもたくさんありますよね」

 

戦後、偶然に再会

「それからは太宰さんと どのようなお付き合いを?」

「戦争で一時、母の実家がある岡山県に疎開していたんです。落ち着いてきたので東京に戻って、三鷹に住み始めました。そうしたら、駅前の本屋で太宰さんを見かけたの」

「それは偶然ですよね? で『太宰さんじゃない?』って感じで声をかけたと」

「いえ、声をかけられなくて立ち尽くしてました。だって私は17歳になってたし、小学6年生の時と比べたら、見た目が変わってるわけです。『誰?』って言われるかもと思って迷っていたら、太宰さんが気づいてくれましてね。『聖子ちゃん!?』って」

「それはうれしいですね。太宰さんも三鷹に住んでいたから、よく顔を合わせるようになったんでしょうか」

「はい。太宰さんはよく若松屋(屋台のうなぎ屋)に居てね。屋台って、普通は店主が中にいて、お客さんは反対に座るでしょ? でも、太宰さんは中に座って、通る人を観察していたわけね」

「へぇ! 小説の材料にしようとしていたのかもしれないですね」

「私がその前を通ると、『聖子ちゃん!』って呼ばれて。『ここは関所だから素通りはできない』って、一緒にうなぎを食べたりしました」

気さくな方だったのですね。ああいう作風の方だから、気難しい人だったのかな?と思っていましたが」

「仕事中はものすごく集中なさるんですけど、飲んでいるときは、すごく周りに気を使って、人をもてなす精神が旺盛な人ですね。太宰さんを作家として尊敬していましたが、私にとっては、話し上手で楽しいおじさんでした」

 

文豪からのクリスマスプレゼント

「ところでママは、太宰さんの紹介で新潮社(出版社)に入社したとか」

「はい。その前は事務員をしていたんですが、私はそろばんが苦手で(笑)。いつも数字の計算を間違ってたんです。向いてないな、と思ってたときに、太宰さんに紹介されて新潮社へ入りました」

「本当にかわいがられていたのですね。小説『メリィクリスマス』のモデルになったときの気持ちはどうでしたか?」

 

メリィクリスマス

津軽から東京に戻った主人公の笠井は、書店で偶然シズエ子に会う。シズエ子は、笠井にとって”唯一のひと”であった女性の娘。5年ぶりに再会し、大人になったシズエ子への淡い気持ちと、その母への思いが描かれた作品。

 

「太宰さんがうちへいらして、懐から中央公論の新年号を出して、『これ、あなたたちにクリスマスプレゼント』ってくれたんです。その場で母と二人で読みました」

「うわ、それはとんでもなく貴重なプレゼントですね。やっぱり嬉しかったですか?」

「嬉しいとかは、特にありませんでしたね(笑)」

本当ですか!? ファンにしてみればそれ以上に光栄なことってないので羨ましいんですが……。では太宰さんは、お二人が目の前で作品を読む姿を見て、どうだったんですか? 嬉しそうにしてました?」

「いえ、普通でした」

淡々としてますね! まあ、聖子さんと太宰さんはよく知った間柄だったので、『ファン』という立場とはまた違いますもんね」

 

太宰さんからもらった宝物の行方は……

6月は太宰さんが亡くなった月ですよね。訃報を聞いた時は、どういうお気持ちだったんでしょう?」

「新潮社の方(編集者の故・野平健一さん)から『太宰さんがいらっしゃらなくなった』と聞いたんです。それで、さっちゃん(愛人だった山崎富榮さん)の部屋に行ったら、小さいテーブルに二人の写真が飾ってあって、お線香も上がっていて

「心中する段取りをなさってたんですね……」
「遺体が発見された時は、まさかそんな、という気持ちでした。太宰さんは何回も自殺しそこねた方だから、また今度も自殺を失敗して、そのうちひょっこり出ていらっしゃるわよって思ってたの。でも、今回は本当だったんだと」

「ママはいろいろな文豪と親交をお持ちですが、太宰さんはやはり特別な作家のおひとりなんでしょうか?」

「そうですね。昔から知っていたし、ああいう亡くなり方でしたし、とてもショックが大きかったです」

「生前の、一番の思い出は?」
三鷹でペンダントを買っていただいたんですよ。お誕生日とかではなかったんですが、なんとなく通りすがりにね。銀色で、彫刻みたいな模様が入ってるペンダントでした」

「それはものすごく貴重ですね! 今も大事にお持ちだと思いますが、見せて頂けないでしょうか」
「いえ。すぐ無くしちゃったのよね(笑)」

「ええぇぇ!? せ、聖子ママ~~~!!」

 

風紋

住所:東京都新宿区新宿5-15-2 
電話:03-3354-6696
営業時間:18時30分〜24時
定休日:日曜日

※風紋は残念ながら、2018年6月下旬に閉店予定です。お越しの際は、お電話で確認のほど、お願いいたします。

取材を終えて

今年は太宰治の没後、70年。

文豪と聞くと、歴史上の人物のような、遠い昔に生きていた印象があるかもしれません。

 

けれど太宰さんの場合、まだまだ関係者も存命の方が多く、ゆかりのスポットも彼の体温をリアルに感じられる場所ばかりです。実際に足を運ぶことで、きっと太宰治の新たな魅力と出会えることでしょう。

 

それでは、グッド・バイ。