私の子ども時代、男性は「グンゼのブリーフ」を履いていました。グンゼは、まさに“身近な”会社だったのです。

 

現在も、男女の下着や肌着を手がけるメーカーとして、業界トップクラス。また下着・アパレルだけでなく、プラスチックフィルムや医療機器の製造などにも展開している「グンゼ」はかつて、「郡是」という堅苦しい綴りでした。

 

「郡是」の名前には、製糸業を通じて地域発展を願う思いが込められていました。また、グンゼは当時としては珍しく社員の人権を重んじ、平等な社員教育を重んじる会社でもありました。

今回はグンゼの創業地を訪ねて、社名の詳しい由来と創業精神を探ってみたいと思います。

 

養蚕から製糸の「郡」へ

グンゼはいまから120年以上前、京都府北部の綾部(あやべ)で創業しました。

 

創業者の波多野鶴吉は、綾部の大庄屋・羽室家の次男として生まれ、8歳で波多野家の養子になります。当時の綾部は「何鹿(いかるが)郡」と呼ばれていて、鶴吉はやがて何鹿「郡」の発展に尽くしていくことになります。

 

鶴吉は京都に出て学問の道を志し、また事業に乗り出したりもしますが、失敗の連続。養家の財産を使い果たしたあげくに、病気で鼻が欠けてしまいます。

 

綾部に帰郷した鶴吉は小学校教員になり、養蚕農家の子どもたちが暮らす劣悪な環境に衝撃を受けます。また、京都府の繭と生糸は、東京上野で開催された品評会で「品質が粗悪だ!」と酷評されていました。そこで、何鹿郡の養蚕・製糸業の近代化のために組合の結成が進められることになったのです。

 

郡是製絲株式会社が貞明皇后(大正天皇の皇后)から賜った蚕の一生が描かれた「香炉」

 

そうして結成された何鹿郡蚕糸業組合の組合長には鶴吉が就任。養蚕先進地への技術者の派遣、養蚕伝習所の開校などに取り組み、「蚕糸業の振興こそが天命」と製糸会社の設立を志すのです。

 

鶴吉はその頃、地方産業振興運動や実業団体の組織化を推進し、全国を行脚していた前田正名の言葉に心を打たれます。

 

「今日の急務は、国是、県是郡是、村是を定むるにあり」

 

何鹿郡の発展のためには、農家に養蚕を奨励することが急務であり、「郡是」である。グンゼの「郡是」とは、「何鹿郡の方針」という意味だったのです! 鶴吉は郡是を実現し、蚕糸業の振興を通じて養蚕農家、製糸会社との共存共栄を図ろうと「郡是製絲株式会社」を設立したのでした。

 

“近代企業建築博物館”の趣

グンゼ記念館 金曜日のみ開館(但し、祝日・GW・お盆・年末年始休暇は休館)開館時間/10:00〜16:00

 

JR福知山線綾部駅の北口から歩いて10分程のところに、2014年5月にオープンした「あやべグンゼスクエア」があります。また、敷地内にあるグンゼ博物苑は1996年にオープンしました。

 

グンゼ博物苑、あやべ特産館、綾部バラ園からなるあやべグンゼスクエアの向かいに建つのが、1917年建造の郡是製絲㈱本館本社事務所を用いた「グンゼ記念館」です。1950年の開館、2階建ての館内には、グンゼの社史と養蚕と製糸に関する資料などが展示されています。

 

「グンゼ記念館」2階の主展示室には、創業からの歩みがわかる資料が展示されている

 

1階には繰糸機械と蚕糸技術の歴史を紹介する「蚕糸室」、グンゼの社員教育に光をあてた「教育室」、2階には「主展示室」に「創業者室」、1917年に貞明皇后(大正天皇の皇后)が行啓したときの御座所を再現した「栄誉室」などがあります。

栄誉室に展示された貞明皇后から賜った蚕の一生が描かれた香炉など、展示は見ごたえじゅうぶん。

 

記念館の左隣には1933年に建設されたグンゼ本社屋があり、いまも現役。グンゼ記念館の右隣には1917年に建てられたグンゼ本工場正門もあり、グンゼ記念館とともに日本建築学会から保存指定を受けています。

この一角はさながら“近代企業建築博物館”といった趣です。

 

「グンゼ博物苑」展示蔵(創業蔵・現代蔵・未来蔵、今昔蔵) 休苑日/火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始。開館時間/10:00〜16:00

 

グンゼ博物苑は1910年代の繭蔵を改装した3つの蔵で、グンゼの過去・現在・未来を紹介・展示。

 

「創業蔵」では蚕糸業で用いていた機械や道具と、創業当時のあゆみと鶴吉がめざした会社づくり、「現代蔵」では蚕糸業で培ったノウハウを基礎にした多様化な事業活動、「未来蔵」では最新の製品や技術が紹介されています。

 

「工女さん」の教育に力を入れる

鶴吉は小学校教員時代に、養蚕の実態を見聞したことから蚕糸業の体質改善を決意。何鹿郡の蚕糸業組合長となり、製糸業を興して養蚕業を活性化させることで地域に貢献したいという思いを強めていきます。こうした思いが、郡是製絲を設立するきっかけになったことは先に述べたとおりです。

 

ところで「何」+「鹿」で「いかるが」というのは、かなりの難読地名ですね。

「いかるが」という地名は、法隆寺がある奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町斑鳩(いかるが)、兵庫県揖保郡太子町の鵤(いかるが)など、聖徳太子ゆかりの地に見受けられます。しかし「何鹿郡」の表記については、はっきりしたことはわかっていません。

 

「道光庵」木・金・土曜日のみ開庵。開庵時間/11:00〜16:00

 

鶴吉は工場の中の長屋に夫婦で住み、いつもモンペ姿。鶴吉が竹ぼうきで庭や通路を掃くと、夫人が手桶で水を撒く姿が見られたといいます。現在、あやべグンゼスクエアの一角に建つ「道光庵」は、鶴吉が住んだ長屋の社宅を一部移築、改装したものです。

 

郡是製絲設立前の32歳のときに、鶴吉はキリスト教(プロテスタント)に入信しています。聖書の中に「善き樹は善き果を結び、悪しき樹は悪しき果を結ぶ」という言葉があり、鶴吉はそこから「善い人が良い糸をつくり、信用される人が信用される糸をつくる」と考えたのです。

 

郡是製絲では女性従業員を「女工」でなく「工女さん」と呼んで大切にし、「自分の娘と思い大切に育て、立派な人間にして実家にかえす」と彼女たちの人格形成や教育啓蒙を重んじました。

 

1909年、郡是製絲はキリスト教宗教家で教育者として著名な川合信水を綾部に招いて、社内に教育部を設置。優れた人材を工場長や教婦として迎え、工女や職工だけではなく幹部にいたるまで平等の社員教育を行っていきます。

 

当時の郡是製絲には寮舎が建てられ、そこにはたくさんの教室が附属していました。そこから、「(郡是は)表は工場だが、裏は学校だ」と噂されたといいます。1917年には郡是女学校を設立し、ここでは養成科、裁縫科など5科の授業と礼儀作法を指導しました。

 

“プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神”を実践

綾部は「グンゼの町」とともに、新宗教「大本」の聖地としても知られています。

郡是製絲株式会社が設立される4年まえの1892年、出口なおが神がかりし、大本の原型が誕生しました。

 

大本の発祥地であり、祭祀の中心である「梅松苑」は、綾部駅から南東へ歩いて約15分のところにあり、壮大な神殿が建ち並んでいます。この梅松苑の向かいにはキリスト教の教会が建っていて、宗教色の混在に驚かされるのですが、ここ「丹陽教会」にも鶴吉が深く係わっているのです。

 

綾部のキリスト教は、新島襄が開いた京都の同志社に端を発します。1877年に同志社の生徒が亀岡に入り、北に向かって伝道を始め、1884年には亀岡北西の船井郡船枝村に丹波第一教会が設立されます。

 

鶴吉は丹陽教会の前身である丹波第二教会が福知山から当地に移転してきたときから熱心な信者となり、1924年に現在の会堂が献堂された際には多額の寄付を行っています。また教会の寄付者には郡是製糸の従業員有志や、主要取引先だったアメリカのスキンナー商会が名を連ね、教会堂の設計も郡是製絲の建築課が手掛けているのです。

 

グンゼの草創期を支えた人々のなかには、製糸業の先進地だった群馬県で受洗してきたものもいました。郡是製絲は鶴吉のもとでキリスト教を基本理念とした社員教育を実践し、丹陽教会の信者の3分の1近くが郡是製絲の従業員だったそうです。

 

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な著作があります。1904年~05年に著されたこの本は、プロテスタントの禁欲的な倫理が資本主義の精神に適合したことを説明しながら、近代資本主義の成立を論じています。

 

プロテスタントの教義では、労働は神の栄光のためになされねばならない「天命」であり、与えられた仕事は「天職」と考えます。そして、天職をまっとうするための禁欲によって得られる利潤は、神の意志にかなうと考えるのです。

 

鶴吉が受洗したのは1892年頃とみられ、その後もウェーバーの著作を読んでいたとは思えませんが、グンゼの創業の精神や社員教育の根底に流れる思想には、ウェーバーの学説に通じるものがあります。

 

製糸業からの撤退と新分野の開拓

昭和の初期、米国でレーヨンの生産量が拡大し、生糸の輸出は大打撃を受けます。そこでグンゼは脚の形に合わせて編んだ「フルファッション靴下」の製造に着手します。

 

戦後まもなくの1946年からはメリヤス肌着の生産を開始し、朝鮮戦争の特需景気もあって、裏毛メリヤス肌着は好評を博します。メリヤス事業は1950年代半ば以降、急速に飛躍し、1968年にはグンゼで最大の事業へと成長していきます。

 

1952年にはナイロン製の靴下も生産を開始、以降は実用性アパレル製品分野が事業の主力となります。なお郡是製絲株式会社がグンゼ株式会社に商号を変更したのは1967年のこと。

 

1960年代からはプラスチックフィルム製品の製造に着手。この分野からはペットボトルの包装用フィルム、高機能プラスチック素材によるOA機器向け材料を開発しました。一方、創業からの主力だった製糸業は徐々に事業規模が縮小し、1987年に生産を終了して完全に撤退しました。

 

医療分野への進出もめざましく、生体吸収性ポリマーによる医療器材の事業化に日本で初めて成功し、1986年には販売を開始しています。

 

こうしてみてくると、グンゼではブリーフやストッキング以外でも、“フィット感”のある製品を開発し続けていることがわかります。

 

郡の繁栄への思いやキリスト教精神に裏打ちされた製糸の「郡是」は、新しいテクノロジーを駆使した多彩な「グンゼ」として、私たちの身近にあるのです。

 

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イラスト=てぶくろ星人(Twitter