失われゆく田舎の文化に戦慄した、東京の官僚

「柳田國男って、どんな人だったんでしょう」

柳田は元々、東京の官僚だったんですよ。今でこそ『日本民俗学の父』みたいに言われてますけど、当時は農業関連の官僚で、国の仕事で出張して、各地の農業現場を視察していたんです。その過程で、その土地の風習や民話に興味を持ったと」

「へー! 国の役人だったんですね。ということは、民話の収集も最初は趣味みたいなもの?」

「まあ、本業ではないですよね。ただ、遠野には民話のリサーチが目的で来たとされています。前年に宮崎の『椎葉村』という、日本三代秘境のひとつの村に行って、鉄砲伝来前のイノシシ狩りの話を聞き『めちゃくちゃ面白い!』となったそうなんですよね」

「どういう風に面白かったんでしょう」

「というのも、当時は明治維新の真っ只中。柳田がいた東京には、西洋の文明がどんどん入ってきてました。その東京から遠く離れた田舎には、まだこんな伝承があるのか! と戦慄したんですよ」

「『鬼滅の刃』でも、炭治郎の村は日本昔ばなしの世界みたいでしたけど、里に降りると電気が通ってたり、汽車が走ってたりしましたね。あれは大正時代らしいですが、そんな都会と田舎とのギャップが生まれ始めた時代だったと」

 

いまも日本の原風景のような景色が残る、遠野

 

「そうそう、明治維新をきっかけに、日本は西洋化してすごく成長していくわけです。だけど、その裏側で失われていくものがある

「それが、『民話』のなかにあった……! たとえば、カッパや座敷童子が生まれた理由みたいな。そこに、日本人の暮らしや考えが反映されているから」

「まさに。椎葉村の民話に戦慄した柳田は、九州と同じくらい東京から遠い土地である、東北が気になった。そんな時に、仲のよい作家から『遠野出身の面白い奴がいる』と佐々木喜善(ささき・きぜん)という24歳の青年を紹介してもらうんです。そして、夜な夜な喜善に会い、彼が東北訛りで語る遠野の民話に夢中になっていきます」

「遠野の民話、めちゃくちゃ面白い! と」

「実際、喜善に会った夜に、『遠野物語を書く』と柳田が日記に書き残しているんです」

「日本民俗学の夜明けだ!」

「『遠野物語』って、最初に発行された部数はたった350部。官僚の趣味で自費出版し、仲のよい人に配られたものだったんですよ。それが時代とともに、だんだんと評価されて。芥川龍之介や三島由紀夫も高く評価しています」

「彼らが『遠野物語、いいじゃん!』となったポイントって何かあるんでしょうか」

 

「評価されたタイミングって、日米安保条約のときや、終戦のとき。つまり『遠野物語』は日本としてのアイデンティティが揺さぶられた際に読み返され、評価されてきたんです」

「日本人のアイデンティティを思い返すための物語……」

「ちなみに、柳田へ遠野物語の元となる民話を伝えた佐々木喜善も非常に面白いんですよ。喜善は宮沢賢治と仲良しで

「え!『銀河鉄道の夜』の?」

「賢治の地元は花巻で、遠野と隣ですから。ふたりはしょっちゅう手紙の交換をしたり会ったりして、交流していた記録が残っています。賢治も民話をモチーフに作品を残していますし、趣味が合ったんでしょうね。当時は『民話好き』な人も少なかったでしょうから」

「オタ友みたいな感じだ」

「しかも、賢治が死んだ数日後に喜善も死んだんです。『遠野物語』は喜善がいないと生まれてませんし、柳田國男がフィーチャーされがちなんですが、もっと喜善のことも知られてほしいですね」

 

「平地人」を戦慄させる使命感

「でも、民話自体はどの土地にもあったわけですよね。遠野で民話が生まれやすい理由みたいなものがあったんでしょうか?」

「遠野が交通の要所だったことが大きいんです。太平洋側の沿岸部と内陸の平野部のちょうど中間に、遠野はあります。宮古や釜石、花巻や奥州など、周囲の街を行き来する際、必ず中継地点として訪れるのが遠野だったんですね」

 

「江戸時代には、遠野で『市(いち)』も開かれて賑わっていたそうです。そうして各地のいろんな人と物が往来すると、噂話や物語も集まってきますよね。しかも、遠野が山に囲まれていたことも重要な要素で」

「山に囲まれていたら、物語が集まる……?」

「今と違って、昔は電気もないわけです。日が暮れると山の中は真っ暗。そんな中を、一人で馬を引いて荷物を運んでいたわけですよ」

「めちゃくちゃ怖そうですね」

「そうです。そこで何かの声を聞いたり、人には見えない何かを見てしまったりしたら……どうしますか?」

「とにかく急いで人里まで走って、誰かに『こんなのを見た!!!』と話すでしょうね。……あっ、それが民話に?」

「そうなんです。だから『遠野物語』には、山中で不思議な存在と出会う話も非常に多いです」

 

『遠野物語』では、『背が高くて目がギラギラして顔が赤い』と描写されている山男。よく山男が出たとされる笛吹(ふえふき)峠の近くには当時、たたら製鉄があり、山奥に集落があった。そこには鉄の技術を教えながら、ひそかにキリスト教を布教する宣教師もいたとされる。つまり、山男とは山奥で目撃された外国人のことだったのではないか…と富川さん

 

「話を聞いてて思ったんですが、『街灯ができて妖怪が消えた』みたいな話があるじゃないですか。昔は暗闇が多かったから不思議な存在をそこに見ていたけど、テクノロジーの発達でそれが消えたと。『遠野物語』も、そういう側面はありそうですね」

「まさに柳田が来た当時の遠野は、まだ電気が通ってなかったんです。電気が通り、交通の便がよくなったりトンネルが通ったりすると、人は峠をわざわざ通らなくなりますよね。だから物語や伝承が集まってくるギリギリのタイミングで、だからこそ柳田は『遠野物語』を残そうとしたわけです」

「便利さとともに、カッパや座敷童子は消えて行ってしまう……現代の僕たちはカッパや座敷童子には会えないのかなと思うとさみしいですね」

柳田が『遠野物語』を書いたのは、大きく変化していく社会のなかで、失われゆく文化を残す使命感があった。それと似たものを、いまの僕も感じているんです」

「使命感?」

 

「『遠野物語』には『願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ』と書かれています。『平地人』とは都会人のことなんですけど、東京の官僚だった柳田が、『都会のやつらは遠野物語を読んで戦慄しろ!』と言ってるわけですね」

「遠野の民話を聞いて驚け! みたいな(笑)」

「僕も東京から遠野へ移住してきたんですが、『遠野物語』だけでなく、こっちに残っていたお盆の文化や郷土芸能の面白さに、まさに戦慄したんです。だから、いろんな遠野のローカル文化をアーカイブして、伝える活動を行っていて」

 

遠野市立遠野小学校では、約40年に渡り「遠野の里の物語」という『遠野物語』をテーマにした演劇を発表している。2018年、遠野小学校と富川さんの主宰する「to knowプロジェクト」がコラボし、プロモーションや演出、舞台美術に関わった

 

「お盆」という文化の本当の意味を探るべく、「お盆研究会」を結成。富川さんをはじめとするメンバーが遠野・郡上・アイスランドで目にした、その地に続く“お盆”を中心とした先祖・死者供養の文化を辿る2年間の記録をまとめた「お盆本」を発行した

 

鹿の供養と五穀豊穣の意味があるとされる東北の郷土芸能「しし踊り(鹿踊り・獅子踊り)」。富川さんも踊り手として参加している

 

「ローカルにある地域資源を、編集して伝えていける人材の必要性も強く感じていて。だから、その人材を増やすための研修事業にも取り組んでいます」

「まさに『遠野の民話を残して伝えなきゃ!』と活動していた柳田國男みたいな。そういう意味では、このジモコロも同じな気がしてきました。ローカルにある文化を『これ面白いよ!』とアーカイブして伝えてるので」

「そうですよね。ローカルの文化も誰かが残さないと、消えていってしまうので。実際、僕に『遠野物語』の魅力を教えてくれた師匠がいるんです。遠野の郷土史研究家なんですけど、会って1年目くらいに『君が先生になりなさい』と言われまして」

「遠野物語の先生に?」

「そうですね。師匠はいわば、遠野物語の『面白がり方』を教えてくれました。遠野物語の原文は古い言葉使いで、僕はいきなり読んでもよくわからなかったんです。でも、師匠がカッパ淵などいろんなスポットへ連れて行ってくれて『ここにカッパがいて』とか話してくれてるのを聞いてたら、どんどん面白くなって」

「あ〜、まさに実際の現場でエピソードを聞くと、一気に身近になるというか。今日がまさにそんな感じです」

「そうですよね。そうやって『面白がり方』を伝える役割を、師匠に渡されたんです。文化とか歴史って、ともするとおじいちゃんの趣味みたいなイメージを持たれちゃうじゃないですか。でも、入口次第だと思うんですよ」

「どんな風に翻訳して伝えるか、みたいな」

「僕は東京で広告代理店で働いていたんですが、当時のプレゼンや仕事でクライアントの無理難題にどう答えるか? わかりづらい解釈をいかに噛み砕いて伝えるか? と考えてた感覚とすごく近いですね」

「つまり、現代の人も面白がれるように橋渡しする役割ですよね。そこにツアーのガイドだったり、演劇や展示、商品のプロデュースだったり、いろんな方法で取り組まれていると」

「その役割に面白さを感じつつ、師匠が『これまで後継者を作れなかった』と言っていたのも強く覚えていて。受け取ったバトンをどう継承していくかの使命感と、面白さが両輪でずっと回っている感じです

「僕もこの記事で、富川さんに教わった『遠野物語の面白がり方』を伝えたいです。今日はありがとうございました!」

 

おわりに

取材中、カッパ淵の近くでカッパ好きの観光客の方に遭遇しました。聞けば、友人が昔カッパを見たことがあるんだとか。妖怪好きで、遠野はずっと来たかったんですと嬉しそうに話していました。

 

また、遠野の街で地元の女性と話していると、「あの旅館には座敷童子がいるのよ」なんて話が不意に飛び出す場面も。

 

富川さんが教えてくれたように、カッパや座敷童子は単なるファンタジーではなくて、その時代の人々の暮らしや人生が形を変えて現れたもの。時代は変われど、人間の本質は変わりません。いまもひっそりと、民話は人々の間に息づいているのです。

 

興味が湧いた方は、ぜひ遠野を訪れてみてください。僕はもう少し、『遠野物語』の雰囲気を感じてから帰ろうと思います。

 

それではまた。

 

編集:くいしん